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創業融資

創業融資を受けたいと考えています。創業融資というのは、日本政策金融公庫などから
創業時にかなり有利な条件で融資を受けるというものです。
今日は書店で創業融資の本を買って、電車内では三木清の文章を読んでいました。
親鸞は自己の宗教的生を回顧して次のように書いている。
「ここをもて愚禿釈の鸞[#「愚禿釈の鸞」は底本では「愚※[#「禾/几」、U+79C3、420-上-2]釈の鸞」]、 論主の解義をあふぎ、宗師の勧化によりて、ひさしく万行諸善の仮門をいでて、ながく双樹林下の往生をはなる。善本徳本の真門に廻入して、ひとへに難思往生 の心をおこしき。しかるに今ことに方便の真門をいでて、選択の願海に転入せり、すみやかに難思往生の心をはなれて、難思議往生をとげんとおもふ。果遂の誓 ひ、まことにゆへあるかな。」
 これは『教行信証』化巻に記された有名な三願転入の文である。
 この文が、率直に理解するかぎり、親鸞の信仰生活の歴程の告白であることは、明らかである。それは歴史的事実の 叙述である。そしてこの歴史は、初め「万行諸善の仮門」、次に「善本徳本の真門」、ついに「選択の願海」という三つの過程を示している。ところでこの文を 親鸞の信仰の歴史を語るものと見れば、かかる三つの転化、わけても「今ことに方便の真門をいでて」というその「今」が親鸞の生涯のいかなる年代に当るかが 問題になるであろう。しかるにこれについては種々の異説がある。ある者はこの今、すなわち親鸞が「選択の願海に転入」した時をもって、彼が二十九歳で法然 を師として吉水に入室した時であるとし、ある者は吉水入室以後にあるとし、ある者はそれ以前にあるとし、ある者は『教行信証』製作の当時にあるとする。し かしこの種の解釈にはいずれも無理があるところから、右のいわゆる三願転入の文を、歴史的事実とは関係なく純粋に法理的に解釈しようとする者がある。言い換えれば、右の三願転入の文を純粋に論理的に理解しようとするのである。
創業融資の事業計画書についてあれこれ考えながらさらに三木清の著作権切れの文章を読みました。
もちろん直接的には創業融資と何の関係も無いですが、行間を読むと見えてくるものがあります。
三願転入に深い論理があること、それに永遠なる法理があることは、我々もまたやがて明らかにしようとするところである。しかしながらその故をもって、これ を純粋に法理的に解釈することは誤りである。この文は率直に受取る者にとっては疑いもなく親鸞の宗教的生の歴程を記したものであり、歴史的事実の告白であ る。弥陀の本願は単なる理、抽象的な真理ではない。それは生ける真理として自己を証しするのである。この証しは、この真理が我々の生の現実に深く相応する ということ、この現実を最もよく解き明かすということによって知られる。法と機、真理と現実、永遠なものと歴史的なものとの一致、この不思議な一致こそ 我々をして弥陀の本願をいよいよ仰信せしめるものである。自己の信仰の径路を思い廻らすとき、親鸞はそれが不思議にも弥陀の三願によって言い当てられてい ることを驚きかつ慶よろこ)ぶのである。かよう にして化身土巻において、第十九願と二十願とについて釈意しつつきた彼は、自己の宗教的生の歴程について告白するのである。三願転入は単なる論理ではな い。この論理が深く現実の中にあることを自己において見出したものが右の文である。かくして超越的なる真理は内面化されて見出されるのである。
 しかしながらこの文はいわゆる客観的な歴史記述ではない。それはまさに宗教的告白である。宗教的告白は一面懺悔であるとともに讃歎である。このことは三願転入の文とのつながりにおいて、その前には、
「かなしきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた、助正間雑し、定散心雑するがゆへに、出離その期なし。みづから流転輪廻をはかるに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海にいりがたし。まことに傷嗟すべし、ふかく悲嘆すべし。」
創業融資について、また発見があったらお知らせしますね。

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